2014年09月02日 00:13

ホークス 若田部投手

太い眉と大きな濃い目が魅力の若田部健一投手は、太陽に例えるのが似合う選手です。でもここ数年は不振続きで歯痒く1999年5月、若田部投手をトマトで描いてしまいました。「陽はまた昇る」のキャプションを加えましたが、この年は5年ぶりに2桁の10勝を上げ、ダイエーホークスの初優勝に見事に貢献しました。

小学校の低学年時、ラジオ放送で鶴岡監督に心酔してしまい南海ホークスのファンになりました。住んでいた大分県別府市はジャイアンツか西鉄ライオンズのファンばかりで「南海なんかナンカイ」と言われながらファンを大人になっても通しました。その後、福岡の広告代理店に就職しましたが、あの西鉄ライオンズは西武に身売りし所沢へ移り、福岡を本拠地とする球団はなくなりました。これまでの平和台球場で年に数試合だけ西武ライオンズの試合が催されました。球場までは会社から徒歩20分ほどで、たまたまの南海戦のみ都合がつけば足を運びました。福岡を離れても球場はライオンズファン一色、不人気の南海ホークス応援席は40人程度でそこに混じって観戦していました。応援団の方には歓迎され、ホークスのヘルメットなどいろいろいただきました。声をからして応援し負けて帰っていました。この応援席にはライオンズファンからの同情の声が次々と送られてきました。ある日、珍しく勝利濃厚ゲームになった試合では、周囲がとても険悪になり、かぶっていたホークス・ヘルメットを脱いで刺激しないように小さくなって観戦しました。勝って帰る道のなんと気分のよかこと。

1988年に南海ホークスがダイエーに売却され、福岡への移転が決定しました。会社の同僚が「自分は生まれたときからのライオンズファンだが、福岡に来るのなら地元球団になるホークスを応援せんといかんやろ。けどもライオンズが好きでいたたまれん。その点、あんたはよかね〜」。私は世界一の幸せ者だと思いました。

ダイエーホークス1年目の1989年は、杉浦監督で4位。1990年からは田淵監督が指揮を執り最下位。1991年は5位、オフのドラフト会議で1位指名した若田部健一投手の交渉権を得ました。私は嬉しくて久々に田淵監督を讃えました。その後の指名1位の記者会見では、若田部投手が挨拶のため頭を下げたところ手前のマイクにゴツンと当たり、報道陣に笑いを誘いました。この頭ぶつけパフォーマンスは明石家さんま氏がテレビで何度も真似再現をし受けていました。

1992年、ホークスは4位でしたが、新人の若田部投手はふんばり10勝を上げました。新人王の基準となる2桁勝利を得たものの届かず新人特別賞で表彰されました。

その後は期待どうりの成績に至りませんでしたが、1999年は10勝をあげチームの初優勝に貢献しました。

若田部投手は後年、横浜ベイスターズにFAで移籍しましたが、現在は福岡で野球解説者として活動を。HKT48の若田部遥ちゃんのお父さんとしても知られている。

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